大阪・天神祭、東京・神田祭とともに日本三大祭りのひとつ京都の祇園祭。その歴史は長く、毎年多くの人で賑わいをみせます。今回はそんな祇園祭の起源や歴史について簡単にお伝えします。もっと祇園祭のことを知ることで、これまでより祇園祭が楽しくなるかも・・・(^^)
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そもそも京都祇園祭とは?
現在では賑やかなお囃子と豪華な山鉾巡行、そして宵山の露店などが人気を集めている祇園祭。この祇園祭の起源は869年(貞観11年)、およそ1200年前まで遡ります。
起源は貞観の御霊会(ごりょうえ)
貞観年間の京都では疫病が大流行。実に多くの死者が出て、見るも悲惨な状況が続いていました。実際には疫病は日本中で流行しており、何とかこの状況を打破したいと国中が思っていました。
発達した医療のない時代、疫病を抑えるために執り行われていたのは「お祓い」などの神頼みです。大規模な疫病が流行した当時も、疫病を取り祓うための儀式が行われることになりました。
それが現在の祇園祭の起源である、貞観の祇園御霊会。御霊会とは当時一般的に行われていた信仰で、疫病の大流行は御霊(みたま)の怒りに触れてしまったからという考えからその怒りを鎮めるための儀式を執り行うことにしたのです。
ちなみに御霊とは、怨念などを抱いてなくなった人の魂のこと。こうした怨霊は何かのきっかけで災害や疫病を起こす祟り神になると畏れられていました。
こうした怨霊を「御霊=神や守護霊」として祀り鎮めることによって、大小様々な厄災から免れ、日々の平安と暮らしの繁栄を実現しようとするのが御霊信仰でした。
貞観の御霊会には山鉾の起源も
御霊の怒りを鎮静化するために執り行われることになった御霊会では、京都だけでなく国中の疫病を抑えるために、当時の国の数にちなんだ66本の鉾を神泉苑に立てることになりました。そして、都中の男児が現在の八坂神社である当時の祇園社の神輿を神泉苑に奉納し、疫病退散の御霊会が行われました。
この66本の鉾立ては現在の山鉾巡行につながっており、2016年現在は、休み山も含めて前祭・後祭合わせて35基の山鉾があります。
現在のような祇園祭になったのは?
さて御霊会として始まった祇園祭ですが、現在のように豪華で華やかなお祭りになったのは応仁の乱後と言われています。
御霊会として始まった当初は、何か厄災があるたびに行われていた行事でしたが、970年(天禄元年)からは毎年行われる夏の大祓の行事に。
ただ、怨霊を鎮め奉ることが目的のお祭りであったことから、始まった当初より怨霊慰撫のための奉納相撲や奉納歌舞などが行われており、華やかになる要素の多いお祭りではありました。
しかし歴史長く、また政治の中心地であった京都はたびたび争乱の中心地にもなり、祇園祭はいくどとなく中止を余儀なくされます。
1467年から10年に渡って続いた応仁の乱では京の町は焼け野原になり、中断した祭りが復活するまでに33年もの月日を要することになったのです。
応仁の乱後の京の町の復興は、為政者ではなく町衆が中心となりました。この町衆が祇園祭の復活にも尽力し、祇園祭は為政者中心の儀式的なお祭りから、町衆による民衆のための大規模なお祭りとなりました。町衆の手により続けられたことで、祇園祭は豪華で見ごたえのある現在のようなお祭りの形となっていったといわれています。